海風に揺れる栗色の髪。ゆっくりと振り向いた時、なびく髪の隙間から見えた漆黒の瞳。恋とはどんなものなのか、そんなことを理解出来るようになる遥か昔に、俺と小夜さんは出会っていた。
生まれ育ったこの島には何もない。本島と行き来するためには1日二便しか出ていない定期船に乗るしか方法がない、そんな閉ざされた島が俺の故郷だ。ただでさえ人気が少ない小さな島の、さらに林の奥深く。林道を少し歩いていくと、開けた小高い丘に出る。景色が一望できるその丘は、この島で唯一俺が心癒される場所となっており、一人になりたい時があると度々訪れていた。
昔観光客用に作られた林道は島民が通ることはほとんどなく、雑草が伸び放題で足場も悪い有様だ。そこを通らないと辿り着かないこの場所に来るやつなんて余程物好きしかいない……と思っていたのだが。
「………………だれ?」
「……そっちこそ、だれだよ」
俺がぽつりと問いかけると首を傾げながら問い返してきた彼女。この辺りでは見たことのない女の子だ。この島では二つの集落で構成されており、それらは島の中央にそびえ立つ山によって分けられている。もしかしたら向こう側の集落の子かもしれない。
「この辺りでは見ない顔だな」
「わたし、××村に住んでるの」
「やっぱりな」
草むらの上に腰掛けていた俺の横を指差し、彼女が「隣、いい?」と小さく尋ねた。それに応じるように小さく頷く。
「今日は収穫のお手伝いでこっちまで来たんだけど、あまりに役に立たないからその辺りで遊んできなさいって、言われちゃって」
「……家は農家か」
「うん、夏みかん」
「夏みかんねぇ……………」
ここらではウニやフグなんかが捕れることで有名な土地だが、実は夏みかんの産地でもある。夏になると嫌ってくらい収穫されたそれがそこらの家から集まってくるので、昔から食べ飽きてしまうくらいには身近にあるものだった。
「…きらい?」
「……きらいじゃないけど、もう食べ飽きた」
「……ふふっ」
でかいため息をついた俺の姿が妙におかしかったのか、彼女はくすくすと笑いだした。
「そんなにおかしいか?」
「…ううん。わたしも、もう食べ飽きたなーってずっと思ってたの」
「夏みかん農家なのに?」
「そう」
君よりもっと食べ飽きてるかも、というと彼女はすくっと立ち上がった。海を眺めながらうーん、と大きく背伸びをした彼女は遠くに視線をやったまま、話し始めた。
「この海の向こう……行ったことある?」
「……まだ、行ったことない」
「わたしも!行ってみたいよねぇ、テレビでしか見たことないけど、おっきい建物とか、動物園とか水族館とか。ここにはない素敵なものがいっぱいあるんだもんね」
「そーだな……なーんもねぇもんな。ここには」
「なーんもないのよね。海と夏みかんくらいしか」
「まぁ、それは言い過ぎかもしれんけど」
「そう?」
そんな他愛もない会話をしていると、どこからか声がした。誰かを探しているような声だ。
「あ!お父さんが呼んでるから行かなきゃ!お話してくれてありがとう、楽しかった。」
「ああ、いや…………そういえばお前、名前は?」
「さよ、小夜だよ!君の名前は?」
「……倫太郎」
「…倫太郎くんかぁ……」
ふふ、と満足げに笑うと、彼女は肩から下げていた小さな鞄から夏みかん味の飴を一つ取り出して俺に差し出した。
「はい。食べ飽きてるかもしれないけど、今日お話してくれたお礼!」
「あ………ありがとう」
「じゃあね!倫太郎くん!」
そう言って颯爽と駆けて行った彼女はまるで幻のようで。けれども俺の手にしっかりと残された少し大きめな飴玉が、彼女の存在が幻なんかではないのだと証明してくれていた。
夏みかん農家の女の子がくれた夏みかん味の飴玉。
包み紙を破って飴を口に含む。食べ慣れている夏みかんの味とは違って、それはずっと甘く口の中に溶けていった。
それから数年後。島の子供たちが減少傾向にあった頃、2つの集落の小学校がひとつに合併されることになった。その時、俺は再び小夜さんと再会した。偶然にも同い年だったらしく、その後ずっと小さな島の学校で同じ時間を過ごすこととなる。中学2年生のある日、幼なじみの龍二が俺にこそっと話しかけてきた。
「倫太郎は好きなやつとか……いる?」
「……いや、別にいないけど。お前は?」
「………まぁ……」
自分から聞いてきたくせに少々恥ずかしそうに言葉を濁す龍二を見て、「恋をする」とはこういうことなんだとぼんやり思った。
「で、誰が好きなわけ?」
「……それ聞くのか?」
「聞いてほしかったんじゃねーの?」
「………まぁ……」
またもや言葉を濁す龍二。めんどくせーなと頭の片隅で思ったことは横に置いておいて。龍二がぽつりぽつり、と自分が想いを寄せている女の子について話し始めた。その話を聞いていくうちに、龍二の想い人が小夜さんであることを知った。明朗快活で、誰にでも優しくて、ちょっとお転婆で、どこから見てもかわいい女の子。龍二が好きになるのも容易に理解出来た。同時に心の奥底がちくりと棘が刺さるような感覚を覚えた。
………??
それがあまりにも一瞬の出来事だったものだから、気にもしていなかった。それが俺にとっての恋だと気づくまでに数年時間がかかることを、その当時の俺は知る由もない。